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歴史好き女子、戦国時代好き女子必読

山本勘助は占い師だった?戦国武将の軍師事情

歴史ブーム、刀剣ブームも手伝って、戦国武将の人気が再燃しています。武力や知略を駆使して天下を目指した彼らですが、実は占いを採り入れて行動していたのをご存知ですか?たとえば「出陣するならこの日がいい」「勝つためには、この方角から攻める」など、占いは戦における作戦をはじめ、築城から領土経営まで、様ざまな場面に活用されていました。

戦国武将は戦術を占いで決めていた?

あらゆる事案を占い、主君に進言したのは「軍師」です。軍師といえば、豊臣秀吉に重用された竹中半兵衛や黒田官兵衛ほか、戦略や戦術の面で主君を助けるというイメージですが、その中には占いや祈祷をはじめ、呪術的な面で武将を支える「軍配者」と呼ばれる者たちも活躍していました。

武田信玄の「軍配者」山本勘助

竹中半兵衛や黒田官兵衛と並ぶ有名な軍師といえば、武田信玄に仕えた山本勘助でしょう。彼は次川中島の戦い(第四次)において、「啄木鳥(キツツキ)戦法」を用いたことで知られていますが、縄張り(区画内で土地利用計画、建物の配置計画を立てること)、築城に優れ、雲気などで敵の様子を占うなど「軍配者」としての高い能力も兼ね備えていたといわれています。

もともと軍師は「軍配者」の側面が強く、陰陽道(古代中国の陰陽五行説にもとづき、自然現象を観察して吉凶を判断する学問)を用いる手法が主流でした。しかし、戦国時代終盤、「兵力の数が増えて戦争の規模が大きくなった」、「鉄砲の出現で陣立や戦術に変化が生じた」ことから、軍配者タイプではない、知略で軍事や政略を立案する参謀タイプの軍師が重用されるようになっていったのです。

なお、山本勘助は長く「架空の人物」とされていました。しかし近年、勘助とおぼしき人物を記した歴史的資料が発見され、現在は実在の可能性が高くなっています。

合理的な織田信長も占いを信じていた?

軍配者タイプの軍師は、多くの戦国武将に召し抱えられていました。その中には武士だった者もいれば、僧侶など、当時の学問を究めていた識者も少なくありませんでした。「戦国の三傑」である徳川家康も、関ヶ原の戦いに従軍し、占筮によって勝利を占った僧・閑室元佶をはじめ、学僧をブレーンとしていました。

では、中世的の常識を払拭し、現代に通じる合理的な考えで天下をとった織田信長ですが、やはり彼は占いの類を信じなかったのでしょうか?こんな逸話が残っています。信長は「同年・同月・同日に生まれた人間は同じような運命をたどる」という占いに疑問を持ち、ある日「自分と生年月日が同じ人を集める」という御触れを出しました。そこで見つかった人間は、信長とは正反対の貧しい男。「やはり占いに根拠はない」と確信する信長に、その男は「天下人も貧しい者も、明日の事がわからないのは同じこと。上様と私に差はないのです」~つまり「これから先のことは誰にもわからない」といったそうです。


このエピソードからも、信長は占いに懐疑的だったと思われますが、一方で伊束法師という軍配者を召し抱えていたそうです。彼自身の思惑は別として、彼に仕える武将たちの中には、まだまだ占いを信じていた者も多かったでしょう。それだけに信長は軍配者を無視することはできなかったのかもしれません。

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