華のある生活

偉人・有名人が愛した花

人間と花の関わり

花と人は古くから関わりを持っています。神話、伝説、物語、宗教などに花は欠かせない要素でした。人類最古の花との関わりの足跡は、およそ六万年前に遡ります。イラク北部で発見されたネアンデルタール人の埋葬地には、数種類の花が手向けられていたことが分かっています。六万年も前の人類が、現代の私たちと同様に、死者への慰めに花を供えていた、ということは新鮮な驚きです。

ツタンカーメンの墓からはヤグルマギクの花束が発見され、ほかのエジプト王の墓からもたくさんの花が見つかっています。ギリシア神話にも、ナルシスが水仙に変身するエピソードをはじめ、多くの花に関する話が登場します。また花は宗教とも深く結びつき、ユリは聖母マリアの花とされ、ヒンドゥー教では蓮の花が、命を宿す存在として現れた「始まりの花」とされました。仏教においても蓮の花は、悟りの世界を象徴する花となっているのです。

花は深く私たちの生活に密着し、そして花には特別な意味が込められ、人は花に様々な思いを抱いてきたのです。今回はそんな花と私たちの関わりを、歴史上の偉人・有名人が愛した花を通して、探っていきたいと思います。

マリー・アントワネットの夜会服を飾ったジャガイモの花

皆さんは、悲劇の王妃、マリー・アントワネットがジャガイモの花を好んで身に付けていたことをご存知ですか?豪華絢爛たるヴェルサイユ宮殿とジャガイモの花の取り合わせは、とても不思議ですね。もともとはルイ十六世が、薬剤師の廷臣から飢饉用の作物としてジャガイモを栽培するよう進言を受け、フランス国内にもジャガイモの栽培を広げようと、マリー・アントワネットにわざとジャガイモの花を付けさせたのです。つまりマリー・アントワネットは、ジャガイモのキャンペーンガールになっていたわけです。しかし可憐で美しいジャガイモの花は、すっかり貴族たちを魅了し、一時はヴェルサイユ宮殿に集まる貴族からパリの街の人々まで、こぞってジャガイモの花を身に付けたそうです。マリー・アントワネットも、はじめはルイ十六世から頼まれて付けていたのですが、すっかりこのジャガイモの花が気に入ってしまい、いつも髪飾りなどに用いていました。貴族たちの屋敷やパリの街角で、ジャガイモの花がたくさん咲いていた光景を思い浮かべると何とも楽しいですね。

学問の神様、菅原道真が愛した梅の花

菅原道真はご存じのように、朝廷での出世を妬んだ藤原時平に無実の罪を着せられ、901年に北九州の太宰府へ左遷されました。そして、そのわずか二年後に、彼の地で非業の最期を遂げた人物です。この道真が幼少のころから住んでいた都の屋敷には、たくさんの白梅と紅梅が植えられ、白梅殿、紅梅殿と呼ばれていました。梅をこよなく愛していた道真は、なんと五歳のときに次のような歌を詠んだといわれています。

「美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」

梅は、もともと日本には自生しておらず、中国から渡ってきた植物です。道真が、美しい梅の花を頬にも飾りたい、と歌に詠んだ背景には、中国の文化への憧れもあったのでしょう。当時梅は、貴族の邸宅の庭などでしか見ることが出来ず、庶民の目には触れることのない神秘的な花でした。道真が庭に咲き乱れる梅の花を眺めるときの心持ちは、現代の私たちが梅園などで鑑賞するときのものとは、かなり違っていたと思われます。道真の目の前には、この世のものとは思われない、次元を異にした空間が広がっていたのではないでしょうか。

そして、道真が遠い太宰府の地へ赴く朝にも、庭には梅の花が気高い香りを漂わせながら咲いていました。そこで詠まれたのがあの有名な歌です。

「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

私がいなくても、春になったら変わらず咲けよ、と詠んだ道真の心境は察するに余りあります。幼少のころから親しみ愛してきた梅の花に永遠の別れを告げ、道真は旅立ちました。

伝説では梅が道真を慕って、自らの花が咲いている枝を太宰府まで飛ばしたといわれています。今でも道真を祀る太宰府天満宮の境内には、ご神木の「飛び梅」が毎年美しい花を咲かせています。

モネが晩年描き続けた睡蓮の花

「睡蓮」の連作で知られている印象派の巨匠モネは、1840年パリに生まれ海辺の町ア・ブールで幼年期を過ごしました。ア・ブールでの生活が、モネの自然に対する豊かな感受性を育んだといわれています。後にルノワールらと「印象派」と呼ばれるグループをつくり、光をふんだんに取り入れた画法を世界中に広めました。燦々と光りを浴びて変化していく世界を、見たままに描いた美しい絵画は、後世の美術史に大きな影響を与えました。四十三歳となったモネは、パリ北西部にあるシヴェル二―へ移り住みます。モネの邸宅は、美しく広大な庭のなかに立ち、モネは庭をモチーフに多数の絵画を制作しますが、中でも一番好んで描いたのが水辺に浮かぶ睡蓮でした。1890年頃から亡くなるまでに描いた睡蓮の絵は、実に二百点以上にも及びました。晩年は睡蓮以外の絵を描くことはほとんどなくなり、はじめは岸の柳なども一緒に描かれていた絵の構成も、池と睡蓮のみが描かれるように変わっていきました。最晩年には、画面いっぱいに水面と睡蓮、写り込む色と光が渾然一体となって描かれるようになり、限りなく抽象に近づいています。

モネの心を捉えて離さなかった睡蓮。なぜモネはそれほど睡蓮に惹かれたのでしょうか。確かに睡蓮の持つ神秘的な美しさは、他の花には見られないものがあります。水面に漂いながら、水の中から生まれてきたかのように咲く睡蓮の花は、モネの眼には宇宙がつくり出す美の象徴として映ったのかもしれません。

皇帝が愛したスミレの花

フランスの皇帝ナポレオンは、スミレの花をこよなく愛したことでも知られています。紋章にもスミレが使われ、ナポレオンは士官たちから、「父なるスミレ」「スミレの伍長」などの愛称で呼ばれたといわれています。1814年、解放戦争の敗戦によりナポレオンは、エルバ島へ流されますが、「スミレの咲く頃に必ず帰る」という宣言通り、翌年春に再びパリへ戻ったことから、スミレの花は復活のシンボルとされました。しかしナポレオンは、ワーテルミーの戦いでの敗北により、セントヘレナ島へ流され、1821年に失意の中死んでいきました。ナポレオンがその死のときまで所持していたロケットの中から、離別したジョゼフィーヌの髪と、枯れてしまったスミレの花が見つかったといわれています。

民衆の英雄から、独裁者へ、そして敗北と失脚という激動の人生を送ったナポレオン。そんなナポレオンの愛した花が、可憐な野草、スミレであったという事実は、私たちにナポレオンの見えざる心の内を垣間見させてくれるような気がします。


ここにご紹介したエピソードは、花と人の関わりの歴史の中のほんの一部にすぎません。古代から現代に至るまで、人々はさまざまな花を愛し、花に思いを託し、ある時は花に愛する人を重ね合わせたりしてきました。花は自然が生み出した妙なる存在です。人は花に触れると心が優しくなり、明るくなります。その造形美は、私たちにさまざまな感情を起こさせ、そして深い癒しと安らぎを与えてくれるのです。これほど日常的に、私たちの精神に深く関わっている自然の造形物は他にはないのではないでしょうか。これから先どんなに生活様式が変わろうとも、私たちと花との深い関わりは永遠に途絶えることがないでしょう。

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